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天正10(1582)年6月2日早朝、明智光秀は主君の織田信長を本能寺(京都府京都市)に攻め滅ぼしました。半ば治まりかけた天下を大きく揺るがす大事件の勃発です。
光秀は織田家が擁する約5人の方面軍司令官の1人でした。担当地域は近畿。当時、信長の本拠は安土(あづち、滋賀県)にありました。つまり光秀は、滋賀県に本社がある大企業の“近畿担当リージョナルマネジャー”だったのです。政務にも明るいため、たびたび“本社業務”にも手を貸したと言われています。
光秀は織田家にとって“中途入社組”の1人ですが、信長は絶大な信頼を置いていました。そんな重臣中の重臣が、なぜ謀反を起こさねばならなかったのか? 定説はいまだなく、怨恨説、野望説、陰謀説など様々な歴史解釈がなされています。陰謀の黒幕として名指しされる人物も、1人や2人ではありません。
ただ、1つ確実に言えるのは、背後で黒幕がどんな画策をしたとしても、信長と光秀の信頼関係が盤石のものであれば、謀反にまでは至らなかったはずだ、ということです。信頼関係の揺るぎは、しばしばコミュニケーション不足に端を発します。
信長の命令は、常に短かったと言われています。背景説明はほとんどなされませんでした。織田家において責任ある地位に就いている者は、「この命令はどんな文脈で発せられたのか」を常に正しく理解している必要があります。
もし、そうした文脈を読み誤れば…。取り返しのつかないコミュニケーション・ギャップが生じてしまいます。あるいは、コミュニケーション・ギャップがすでに生じているから、文脈を読み解くことに失敗するのか。いずれにせよ「本能寺の変」は、2人の武将の間に生じた些細なすれ違いが、やがて破局へと至った典型的なケースと言えるでしょう。
コミュニケーション・エンジニアリング(CE)という現代のツールを応用することで、信長に対する光秀の信頼を回復させることができるのか。全3回の「ミニ歴史シミュレーション小説」を通じて検証していきたいと思います。これによって、CEに対するご理解が深まれば幸いです。 |
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